第六話 落涙

瑠璃は舎弟達と別れた後、さて、どうやってあの二人くっつけてくれよう、などと考えつつ
暗い坂道を下っていた。
瑠璃「ん?」
歩いているうちに、停車中の1台の車が視界に入る。何故か彼女はその車に違和感を感じた。
何故だろう、とは思ったものの、しかし深くは考えずに瑠璃はその横を通り過ぎる。
通り過ぎながらその車を見ると、
瑠璃「・・・輪止め?」
その車には、左前輪に輪止めが噛ませてあった。
瑠璃「故障中・・・なのかな?」
何か気にはなるものの、それ以上考えても仕方ないと瑠璃は思い、そのまま歩いて行った。
瑠璃が立ち去るのを待っていたかのように、道路脇の物陰から何者かが様子を伺うように
顔を出したのはその直後だった。

そして瑠璃が坂の終わりに近付いた頃、彼女の携帯が鳴った。瑠璃は携帯を取り出し、
発信者を確認する。サキからだった。
サキ「もしもし、瑠璃?」
瑠璃「あ、もしもし?何?」
その直後、彼女の後ろから悲鳴にも似た叫び声が聞こえて来た。
「うーーーーーわーーーーーーー!」
声に驚いて振り向く瑠璃。その目には信じられないような光景が飛び込んで来た。
それはスクーターに乗った舎弟と、その後ろにぴったりとくっついて走る乗用車だった。
瑠璃「しゃ、舎弟君!?」
瑠璃は思わず歩道の、更に外側に退く。舎弟と車はその目の前を通過し、川土手を目指す。
速度は時速80キロほど出ていただろうか。
サキ「え?なに?舎弟君がどうしたの?」
電話の向こうからサキが訊ねる。しかし瑠璃は耳から携帯を離していた。
瑠璃「舎弟君!」瑠璃は思わず走り出し後を追う。
しかし、瑠璃の目の前で舎弟は車に押されたまま土手を駆け上がり、スクーターもろとも
夜空に跳ね上がった。車は土手に乗り上げた所で勢いを殺され、そのままずるずると後退し、
後輪辺りまで車道にはみ出した状態で停止した。
瑠璃「ちょっと・・・冗談でしょ・・・!」
それを見た瑠璃はその場に立ち止まり、しばらく呆然としていたが、弾けるようにまた走り出し、
土手の向こうを目指した。走りながら電話の向こうのサキに、半ば叫ぶように告げる。
瑠璃「舎弟君が事故った!ゴメン!一旦切るね!」

プツ・・・ツーツーツー・・・
サキ「舎弟君が・・・事故?」
サキは携帯を持ったまましばらく唖然としていた。

時間は少々遡る。
車に押されて坂をかなりのスピードで下る舎弟。もう駄目だ、と思った彼は思わず叫び声を上げる。
その瞬間、彼の視界から色という色が消え去った。完全なモノトーンの映像が見える。
それだけではない。やけに走るスピードが落ちたような気がする。落ちたどころか、世界は
スローモーションのようにゆっくり動いていた。

人間というものは生命の危機を感じると、脳が視神経からの色信号を遮断し、その分脳の情報処理能力を
上げ、その危機に対処しようとするそうだが、今の舎弟はまさにその状態だった。
さっきまでパニックに陥っていた舎弟だったが、今はやけに冷静だった。周りを見る余裕も出来た。
その目が歩道にいる瑠璃を捉えた。
舎弟(あれ、瑠璃さん、まだこんな所にいたスか。)
その横をゆっくり通過しながら舎弟は考える。
舎弟(土手まで約10メートル。ブレーキ・・・は危険スね。ロックでもしたら直進が保てないッス。
   T字路の左右からは・・・光は見えない・・・車は来てないっす。土手は・・・障害物も
   段差も無し。このまま行くのがベストっス!」
舎弟の視界から色が消えてからここまで、時間は一秒すら経っていなかった。

そして、舎弟は空を飛んだ。

瑠璃「舎弟君!」
土手を駆け上った瑠璃が舎弟を呼ぶ。彼女はすぐに舎弟を見つける事が出来た。
彼はなだらかな土手の中ほどに、大の字になって空を仰いでいた。スクーターは更にその下
数メートルの所に横たわっていた。
舎弟「右腕・・・よし。左腕・・・動く。右足・・・左足・・・OK。どこか痛むところは・・・
   全く無し。ふう・・・無事生還スね・・・」
舎弟は幸運だった。一つはT字路に車も歩行者もいなかった事。一つは土手の前にガードレールも
カーブミラーも無かった事。一つは歩道に段差が無かった事。一つは土手がなだらかだった事。
いくつもの幸運が重なって、舎弟は傷一つ無く危機を切り抜けた。
最大の幸運は土手の形状だろう。頂上に向かって勾配のきつくなる形の土手は丁度ジャンプ台のような
形になり、向こう側も同じような勾配だったためにスキージャンプの着地のように、ショックは最小限
で済んだのだ。
瑠璃「ちょっと!生きてるなら返事しなさいよ!」
そう叫びながら瑠璃は舎弟の所まで駆け下りた。
舎弟は大の字のまま、自分の頭の上までやって来た瑠璃を見ると、
舎弟「ああ・・・瑠璃さん、大丈夫っス。どこも怪我してないスよ。」
ゆっくりした口調でそう言った。
瑠璃「もう・・・良かった・・・死んじゃったかと思った・・・」
舎弟「自分は悪運強いっスからね・・・それより瑠璃さん?」
瑠璃「え?」
舎弟「そこにいるといい眺めっスよ。」
どかっ!
舎弟の頭頂部に瑠璃のトゥキックがめり込んだ。
舎弟「あ痛あ!酷いっスね・・・」
瑠璃「ふん、冗談言ってられるようなら心配無さそうね・・・」
瑠璃はそう言うと携帯で電話を掛ける。
舎弟「あああ、コブになってるっスよ・・・どこに掛けてるスか?」
瑠璃「警察よ。」
舎弟「いっ!特に怪我も無かったし、車は無人だし、このままばっくれても・・・」
瑠璃「無人!?なら尚更よ!ちょっと気になる事があるのよ・・・あ、もしもし・・・」

やがてパトカーと救急車がやって来た。
舎弟「きゅ、救急車?自分は大丈夫スから・・・」
瑠璃「いいから念の為診てもらいなさい。本人は大丈夫だと思っててもどっか怪我してるって
   事もあるんだから。」
舎弟「そんな・・・今まで生きてきて一度も救急車に乗った事が無いっていうのが自慢だったのに・・・」
瑠璃「どういう自慢よ・・・」
そんな話をしていると、到着したパトカーから警官が二人降りてきた。
警官「連絡をくれたのは君達かい?・・・おや?」
舎弟にはその内一人に見覚えがあった。
舎弟「あ、あんたは・・・」
その警官はいつかの、舎弟を交番まで連行した警官だった。
警官「なんか君とは縁があるな。しかし事故とはね・・・それじゃ、話を・・・おっと救急車の方が先か。」
舎弟「自分はなんともないッスてば・・・」
結局舎弟は救急車に乗せられ病院に搬送された。それに瑠璃も付き添う。

そして病院、診察室。
医者「うーむ、特に怪我は無いようだが、ちょっと頭を打っているね。念の為CT掛けてみようか。」
医者は舎弟の頭のコブを見つけてそう言った。
舎弟も瑠璃も、それは蹴られて出来たコブだ、などとは言えず、黙って従った。
当然結果は異常無し。結局簡単な手当てをして診察は終わった。
診察室を出ると警官が待っていた。
警官「どうやら大丈夫だった・・・かな?」
舎弟「はいっス。ご心配お掛けしたっス。」
警官「それじゃ話を聞かせてくれるかな。」
瑠璃「それは私が。状況を客観的に目撃してますから。」
警官「そうか。それじゃ頼むよ。」

まず彼女は事故の状況、エンジンを掛けずに下っていたスクーターの後ろから無人の車が追いかけて来る
状態であの事故に繋がったことを説明し、そしてこの事故の腑に落ちない点を警官に訴えた。
第一に、一方通行の道に、何故か逆走方向に停めてあった車の事。彼女が感じた違和感の正体はこれだった。
第二に、輪止めで停めてあった事。
第三に、輪止めがしてあったはずの車が坂を下りてきた事。
確かに当事者の舎弟には気付くはずも無い事ばかりだった。

警官は一通り聞くと難しそうな顔をして、
警官「うーん、それが本当なら警らの私達の管轄では無いな。捜査課の仕事だ。」
その時もう一人の警官がやってきて告げた。
警官B「部長、あの車、やはり盗難車でした。」
顔を見合わせる三人。
警官「これは、迂闊な事は言えないが、やはり何者かが故意に引き起こした物と考えた方がいいかも知れない。」
瑠璃「・・・・・」
舎弟「何者かって・・・」
警官「君、誰かに恨まれるような覚えは?」
舎弟「全く無いっス。」
警官「そうか・・・いや、これ以上は私の管轄外だな。明日にでも署で事情を訊かれる事になると思うが
   構わないかい?」
舎弟「それは構わんスが・・・」
警官「うむ。協力してやってくれ。それにしても君は・・・」
警官がそういい掛けた時だった。
久美子「舎弟!」
廊下の曲がり角から久美子が現れた。
舎弟「いっ!久美子!?」
久美子だけではなかった。轟、操、それにサキもその場に現れた。
舎弟「な、なんで・・・瑠璃さん!?」
瑠璃「私はサキにしか連絡してないけどね・・・まあ、しっかりした連絡網ですこと。」
舎弟「そ、そんな・・・」
久美子は舎弟の無事な姿を確認して安堵の表情を見せるが、手当てされた頭頂部のガーゼを見ると
舎弟につかつかと歩み寄り、

ぱんっ

思いっ切り平手を見舞った。
舎弟「痛っ・・・何するス」
舎弟の言葉を待たずに久美子はまくし立てる。
久美子「ばかあああ!だからヘルメット被りなさいって何度も言ってるじゃない!なのに聞こうともしないで!
    死んじゃったら・・・死んじゃったらどうするのよ!」
静まり返る廊下。
舎弟「いや、この頭は・・・」
そう言い掛けた時舎弟は久美子の顔を見てはっとした。涙を流していたのだ。
久美子「舎弟のバカ!もう、あんたなんか死んじゃえ!」
随分と矛盾した言葉を舎弟に浴びせると、久美子は走り去った。
舎弟はそれを呆然と見送る。そこへ操が告げる。
操 「久美子ね、ここに来るまで、わたしのせいだわたしのせいだ、わたしを送ったりしなきゃ
   こんな事にならなかたんだ、って・・・ずっと言ってたのよ・・・」
舎弟「・・・・・・・・・・」
警官「まあなんだ。」
重くなった空気の中、警官が言葉を発する。
警官「私が言いたい事は彼女が言ってくれたよ。君、死んだら元も子もないんだからな。」
舎弟「そうスね・・・」
舎弟は力なくそう返すだけだった。

翌日朝。3-D教室。
久美子は自分の席で、どこか所在無さげにしていた。何か周りを気にしては視線を落とす、そんな仕草を
繰り返していた。それを見ていた操は轟に小声で話しかける。
操 「やっぱり昨夜の事気にしてるのかな・・・」
轟 「まあ、そうだろうな。でも心配はいらないと思うぞ。」
操 「え?」
轟 「ほら。」
轟が窓の外を示す。操が視線を追いかけるとその先には舎弟が校庭を歩いて横切るのが見えた。
操 「あれ?今日は歩き?バイク壊れたのかな・・・」
やがて舎弟は教室の入り口を開け、入ってきた。そして久美子の姿を確認すると、そのまま
彼女の席に向かう。それを見た久美子は視線を逸らした。
舎弟「久美子。」
久美子の横まで来た舎弟が声を掛ける。
久美子「昨夜はごめんなさい、わたし、あんな事するつもりじゃ・・・」
横を向いたままそういう久美子。
舎弟「久美子!」
舎弟が言葉を遮るように強く名前を呼ぶ。目を逸らしたままびくっとする久美子。
一呼吸置いて舎弟が続ける。
舎弟「今日、帰りスけど、買い物に付き合ってくれんスか?」
久美子「・・・・・買い物?」
予想外の言葉に久美子は舎弟を見上げる。
舎弟「・・・いいヘルメット見つけたんで買いに行くんスよ。美術部の後で構わんスから。」
その言葉を聞いた久美子は、これ以上無いだろうという最上の笑顔で
久美子「うん!」
そう一言だけ返した。

つづく