第五話 夜道

久美子「いい?何度も言うけどぜーったいに見るんじゃないわよ。描いてる途中の絵、
    他人に見られるのって大っ嫌いなんだから。」
舎弟「くどいっスよ。自分は約束は守る男っスから。」
ここは美術室。今は放課後。久美子はいつもの通り肖像画を描いているのだが、今は何故か
舎弟もその場にいた。その理由は話を遡る事数日。

数日前、始業前の3-D教室。
久美子が操相手に深刻そうな顔で話をしている。
操 「えーっ!痴漢!?」
久美子「そうなのよ。暗い道でいきなり抱きついてきて。」
そう、この日は久美子が例の不審者に襲われた翌朝である。
操 「で、大丈夫だったの?・・・って無事じゃなかったら平気で出てきてないわね。」
久美子「うん。絵の具箱で思いっきり殴って逃げちゃった。」
操 「うわ・・・ちょっと痴漢が気の毒なような・・・」
久美子「気の毒じゃないわよ!ほんとに冗談じゃないわよ・・・でも今日からどうしよう・・・
   まだうろついてたりしたら困るよ・・・」
操 「どうしようって、美術部?しばらく止めといた方がいいんじゃない?
   少なくとも明るいうちに帰った方が・・・」
久美子「それはそうなんだけど、今、ある絵を描いてるのよ。で、ちょっと理由があって出来るだけ
    早く仕上げたいんだ。」
操 「家で描く訳にはいかないの?」
久美子「油絵だから・・・家ではちょっと。」
舎弟「自分がガードするっス。」
そこへ、その話を聞くとはなしに聞いていた舎弟が割り込んだ。
久美子「舎弟?」
話を聞いていた舎弟は心中穏やかではなかった。

久美子は俺が守ってやる

幼少の頃の言葉は舎弟の中でまだ生きていたのだ。
舎弟「帰り道は付き合うスから、絵でも何でも安心して描くっス。」
操 「ナイス。舎弟君。」
久美子「それはありがたいんだけど・・・わたし帰るのかなり遅いよ?」
舎弟「構わんス。どうせ自分も写真撮るのに学校残ってるスから。」
久美子「そう・・・それじゃ頼んじゃおうかな。」
舎弟「任せるっス。」

そんな訳で、舎弟はそれから放課後写真を撮り終え、時間が余った時は久美子の帰りを美術室で待ち、
一緒に帰る、という毎日を繰り返している。
だが、久美子が描いているのは。訳あってモデル本人には内緒にしている舎弟の肖像画。見られては困る。
冒頭の台詞はそのための方便だった。

一方舎弟の方は、モチーフは決まったものの、もうひとつこれだ、と思える写真が撮れずにいた。
新しいテーマが決まったせいである。
先日の、駅前で見た瑠璃の笑顔と、体育館で卓球をする轟。両者からインスピレーションを得て
決めたテーマは「頑張る仲間の笑顔」だった。
しかしこれがなかなかどうして簡単には出会えるシチュエーションではなかった。頑張るという行為と
笑顔という表情は、よくよく考えればあまり同居する要素ではないのだ。普通頑張っている時なら歯を
食いしばっているとかそっち系の表情になり、笑顔を浮かべるのはリラックスしている時である。
舎弟は、我ながら矛盾したテーマを思いついてしまったものだと思いはしたが、それでもその条件を満たす
被写体はあると信じて毎日校内を撮影して巡っていた。
それに近いものならあった。先日バレーボール部の練習試合を見た時、勝ったチームの嬉しそうな顔が
テーマにかなり近かったが、舎弟は現在進行形で頑張っている表情、それが笑顔、という絵が欲しかったのだ。
やり遂げた後の笑顔ではなく。舎弟は拘る男だった。

そして再び美術室。
久美子が絵を書いている間の集中力は、それは相当な物だった。暇を持て余した舎弟は何度か
話しかけてみたのだが無視されていた。と言うよりは完全に気付いていないようだった。
それにしてもモデルが目の前にいるのに、一切見ようとしない久美子もどこか抜けている。
一方の舎弟はと言うと、何故かカメラと三脚を取り出し、久美子に向けてセッティングしていた。
舎弟にはこの数日間で気付いた事があった。
久美子は絵を書いている最中、よく左手で鼻の頭を掻いていた。どうやら彼女の癖らしい。
そして、その癖のせいで、今久美子の鼻の頭には絵の具が付いていた。
もう一つ、彼にとってはこっちの方が重要なのだが、久美子は常に集中している難しい顔で
キャンバスに向かっているが、観察していると時折楽しそうな表情を見せる事がある。
そしてそのシチュエーションが「頑張る仲間の笑顔」というテーマに合致している事に気付いた
舎弟はその表情を狙うべく、久美子が気付かないのをいい事にセッティングして待っているのだが、
なにしろその表情を見せるのは一瞬の事。なかなか捕らえられずにいた。
そして今また久美子は「ふふっ」という感じの笑みを見せた。
舎弟「!」
反応してレリーズを押す舎弟。やはり久美子は気付かない。
舎弟「んー、今のは間に合ったスかね・・・」
これまでも何枚か撮ったが、その全てがタイミングが遅く、難しい表情に戻った久美子が写っていたのである。
舎弟「あ、そろそろ戻って来る頃スかね・・・」
舎弟は時計を見てそう言うと機材を片付け始めた。久美子が作業を中断して「戻って来る」時刻は大体
決まっていて、その時刻が近付いているのだ。
久美子「んー!今日はこれぐらいにしとこうかしら。ごめんね。絵描き始めると周りが見えなくなっちゃうから。
    退屈だったでしょ・・・って何やってんの?」
久美子はごそごそと片づけをしている舎弟に気付いてそう言った。
舎弟「何でもないっスよ。終わったスか?」
久美子「うん、お待たせ。じゃ、帰りましょ。」
舎弟「その前に・・・」
久美子「ん?」
舎弟「鏡見て来た方がいいスね。」
久美子「?」
久美子は促されるまま洗面所に向かった。
久美子「あーーーーーーーーーーーーー!」
少しの時間を置いて、久美子の叫び声が聞こえて来た。

そして帰り道。
舎弟はこの数日久美子と一緒に下校している訳だが、彼は小学生の頃の事を思い出し、懐かしい気持ちになっていた。
久美子はスクーターを押しながら並んで歩く舎弟に声を掛けた。
久美子「本当に毎日悪いわね。遅くまで付き合わせた上に送ってもらって。舎弟の家、わたしより遠いんでしょ?」
舎弟「気にしないでいいっス。スクーターならあっという間スから。それに自分にもメリットはあるスからね。」
久美子「メリット?」
舎弟「内緒ス。久美子が自分に絵を見せてくれないのと一緒スよ。」
久美子「え、何よそれ。」
そんな事を話していると、向こうから歩いて来た人影がすれ違いざまに声を掛けてきた。
声 「あれ?舎弟君?」
舎弟「は?誰スか?」
暗がりだったので気付かなかったが、よく見ればその人影は金髪のツインテール・・・瑠璃だった。
学校帰りなのか瑠璃は制服姿だった。彼女はサキと違い、スケバンスタイルではなかった。普通の制服に、
スカートはかなり短めで、どちらかと言えばギャル系の出で立ちである。
瑠璃「この前はありがとうね。てか、電話かけてよ。せっかく名刺あげたんだからさ・・・」
瑠璃はそう言いながら久美子に目をやる。
瑠璃(ははあ・・・このコが久美子ってコかな?)
久美子「舎弟・・・この人は?」
舎弟「あ、ああ、サキさんとこの・・・なんて言ったらいいスかね?」
舎弟は紹介の仕方に困って瑠璃に振った。
瑠璃「友達でいいんじゃない?そちらは?」
舎弟「ああ、彼女は・・・」
久美子「クラスメイトの久美子です。」
久美子はずいっと前に出てそう言った。
瑠璃「(やっぱりね・・・)そう。私は瑠璃。よろしくね。」
そう言って瑠璃が差し出した右手を、久美子はちょっと躊躇った後、握り返した。
久美子「それじゃ、私達急ぎますからこれで。舎弟、行こう。」
舎弟「ちょ、ちょっと久美子・・・悪いスね、それじゃ失礼するス。」
そのままその場を後にする二人。瑠璃はその後姿を見ながら
瑠璃「あんなバリバリに警戒して・・・舎弟君は渡さないって言ってるようなもんじゃないの。
   あれで別に好きではないと?ちょっとこれはやりがいありそうね・・・」
そう楽しげに独り言を呟いた。

一方、瑠璃と分かれた舎弟と久美子は駅近くの人通りも多く、車の往来も多い通りにたどり着いた。
久美子「さんきゅ。ここでいいわよ。」
舎弟「またここスか?家まで送ってもいいんスが・・・」
久美子「いいから。この先は安全なんだから、そんな所までガードしてもらっちゃ悪いじゃない。」
舎弟に送ってもらっているこの数日間、何故か久美子は家まで送らせようとはしていなかった。
そして、子供の頃も決して家まで送らせる事は無かった事を舎弟は思い出していた。
舎弟「そうスか?・・・それじゃ気を付けて帰るスよ?」
久美子「うん、それじゃまた明日ね。」
そう言うと久美子は通りを歩いて行った。それを見送った舎弟は今来た道を戻り、スクーターを押す。
ここも一方通行なのだ。そして途中から下りになっている。
舎弟はそこからスクーターに跨り、少々急な長い下りを下り始めた。

ゆっくり坂を下りていく舎弟。途中、車が路肩に停まっている所を通過した所で、待っていたかのように
その車が音も無くゆっくりと動き出した。
舎弟は後ろから迫ってくるタイヤノイズが耳に入り、バックミラーを覗き込んだ。
舎弟「いいいい!?」
車はすぐ背後まで迫っていた。ヘッドライトの光もエンジン音も無かったので、そんな物が背後に迫ってる
などという事は想像だにしていなかった舎弟はパニくった。
舎弟「あわわわ!」
慌ててアクセルを捻る舎弟。エンジンは掛かっていない。加速する訳が無い。
そうこうしている内にスクーターのテールに車のバンパーが接触した。同じ自由落下でも重い車の方が
路面からの抵抗に影響されない。そのまま押されてどんどん加速していく。
舎弟「ちょっとアンタ!何考えてるスか!・・・って嘘お!」
後ろを見て怒鳴りつける舎弟。しかし車は無人だった。
舎弟「ヤ、ヤバイっス!確かこの先は・・・」
下りの終わりは川に面した道路。即ち行き止まりである。舎弟はどうにか横に逃げようとするが、後ろから
押されている状況で、下手に方向を変えたら間違いなく転倒である。そして今転倒したら間違いなく後ろの
車に轢かれてしまう。そこでやっとエンジンを掛ける事を思いついた舎弟だったが、キーは挿していなかった。
舎弟「キー!キー!」
ポケットを探るがどこにも無かった。それもそのはず、キーはトランクのキーシリンダーに挿しっ放しだったのだ。
なす術の無い状況で、ついには行き止まりまで絶望的な距離になった。すぐ前に土手が立ちはだかる。
舎弟「うーーーーーわーーーーーーー!」

そして、舎弟は空を飛んだ。

つづく